☆ナノ世界の小人たち

 「イグノーベル賞」(Ig-Nobel Prize)という賞をご存じでしょうか?名前の通りノーベル賞のパロディで、「誰も真似することのできない、誰も真似すべきではない」、ちょっと笑ってしまうような研究に対して贈られる賞です。本家に負けず劣らずこちらでも最近は日本人の活躍が目立ち、今年2003年は金沢大学の広瀬教授が「ハトが寄りつかないブロンズ像の成分の研究」で化学賞を、2002年にはかの「バウリンガル」が平和賞の栄冠(?)を獲得しています。

 さてつい最近、そのイグノーベル化学賞の有力な候補となりそうな論文が登場したので、いわば番外編的に取り上げてみることにしましょう。ライス大学ナノテクノロジー研究センターのJames M. Tour教授とStephanie H. Chanteau嬢が送り出した論文、「人間型分子の合成:ナノプシャン」がそれです(J. Org. Chem. 2003, 68, 8750)。「NanoPutian」という単語は10億分の1を表す「nano」と、ガリバー旅行記に出てくる小人の国「リリパット王国」の住人「Lilliputian」を掛け合わせた言葉で、「ナノメートル世界の小人」というような意味合いである――、というのは語学にあまり堪能でない筆者の解釈です。

 この論文で彼らは、文字通り人の形の分子をいくつも作り出しています。基本形になるのは下の分子、「NanoKid」(ナノ子供)です。立体モデルは下左のようになりますが、我々がよく使うような構造式(下右)で表すと酸素原子が目玉に見えてよりそれらしく(?)なります。

 子供の頭に当たる部分は、アセタールという比較的容易に取り外しができるグループですので、ここを付け替えていろいろな職業の人々が作り出されています。「NanoMonarch」や「NanoTexan」は、そう見えるように図を歪めて描いてあるだけじゃないか――という気もしないでもないですが。

身長2nmの小人たち。単語の意味は各自調べてみましょう。

 頭だけでなくもっと違うポーズをとった分子は、残念ながら下の「ナノバレエダンサー」だけのようです。筆者なら「ナノピッチャー」や「ナノジャーマンスープレックス」でも合成してみたいところです(笑)。

ダイナミックに踊るNanoBalletDancer。

 さらにTourらはごていねいに、足に当たるところにチオール基をつけて金の薄膜上に並べたもの、手を取り合って踊るナノプシャンのカップル、さらにナノプシャンたちがずらりと手をつないだ「ナノプシャンポリマー」なども作り出しています。

Nanoputian Dimer。絵は多少デフォルメしてある。

Nanoputian Polymer。色分けしたのは特に意味はなく、ただの筆者の趣味。

 人間型分子という考え自体はこれが全く初めてというわけではなく、例えば下左のような分子がある雑誌のエイプリルフール号の冗談論文に登場したことがあります(赤、白、黄色、茶色の異性体があり、極めて危険な化合物とコメントされているそうです)。またWilcoxらが合成した下右の分子が「仏像型分子」として紹介されたこともあります。しかし本当にいろいろな人間型分子を系統的に(?)合成し、論文にまでまとめたのは今回がおそらく初めてではないでしょうか。

左の分子の合成はわりに難しそうですが、誰かチャレンジしますか?

 今回合成されたナノプシャン分子は、形が人間に似ているという他は特に何の機能もなく、今後何かに使い道が拓けるというあてもありません。合成法もごく単純で、化学界に何か新しい方法論を提供したというわけでもありません。

ではなぜこの研究に財団からの助成金が支払われ、有機化学雑誌の最高峰「Journal of Organic Chemistry(JOC)」に論文が掲載されることになったのか――。実はこの研究は、ナノテクノロジーの世界を子供たちに知ってもらうための化学教育プロジェクトの一環なのです(ライス大学の「ナノキッズ」のHPはこちら)。実際この研究は「Journal of Chemical Education」の表紙を飾ってもいます。しかしこの論文が送られてきたときのJOCの審査員の顔はどんなであったか、想像しただけでちょっと笑ってしまいます。

 まあ考えてみれば今まで紹介してきた「ドデカヘドラン」や「ケクレン」も美しいだけで特に何かの役に立つわけでもありませんから、そういう意味ではナノプシャンの合成もこれらと同じことだといえなくもありません。現代の有機化学界で王道とされている「生理活性天然物の全合成」にしたところで「多数の学生と巨額の研究費をかけて、10年がかりで数mgの毒物を合成することにどんな意味があるのか」という批判もあります。今回のこの研究は「合成ターゲットはもっと自由に選ばれるべきだ」という主張、近年の有機化学に対するアンチテーゼである、というのはいくら何でもうがった見方過ぎるでしょうか?

 特に日本ではこういう遊び心のある研究は認められにくい傾向にあるようですが、筆者などは盆栽や模型を作るように純粋に造形美だけを目指した合成研究があってもよいと思っています(まあこのあたりは意見の分かれるところではあるでしょうが)。ともあれTour教授の元から次はどんな分子が送り出されるのか、続報を楽しみに待ちたいと思います。

 (Tour教授の「新作」、ナノカー類についてはこちら


 (追記)

 人型の分子として、こんなものもあります。


zorbarene

 これは2005年、カナダのP.E. Georghiouによって報告されたものです(J. Org. Chem. 2007, 70, 1115 DOI: 10.1021/jo0484427)。カリックスアレンの親戚筋に当たるような構造で、内部に小分子を取り込むホスト化合物として合成されました。
 この分子、手をつないで輪になって踊る4人の人間にも見えます。Georghiouらのグループでは、ダンス好きの陽気なギリシャ人が登場する小説「Zorba the Greek」からとって、この分子を「zorbarene」と名付けました。「その男ゾルバ」として、映画化もされています。なお「arene」の接尾語は、芳香族化合物をつないで作っていることに由来します。

 日本人だと、この構造からイメージするのは「かごめかごめ」でしょうか。内部にアセトニトリルなどを取り込み、囲んでしまう点でもぴったりします。とすると命名は「後ろの正面だアレン」……いや、何でもないです、すみません。

 

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